みくすぃとおなじ。

非常にありがたいことに、俺のことをいい人、と称してくれる人がいる。世の中にはいる。


だけど実際、自分では偽善者だとも思ってる。

これはずいぶん昔から俺の中にあったこと。というわけで、自分の言ってることとか、思ってることを考えるために、ちょいと偽善者について調べてみた。ウィキペでな。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%BD%E5%96%84%E8%80%85


・・・って言っても偽善、しかなかったわけですが。いきなり躓いたよ、オイ。


・・・まぁ、読んでみると、俺の考えてる偽善ってのは自分のことを偽善、と考える人、として書いてある。


「自己の悪の自覚」って言われても、そもそも「完全なる善」ってのは一体なんなんでしょ。俺の場合、客観的に観て(おそらく)善であろうことをやっている時に一番きつく心に来るけど、そういう疑いを持たない人ってのはいるんだろうか?
俺の場合は、たとえば今回は誰かを助けるということを例にすると、(助けられてよかった)って気持ちと、(どうせ人にいいとこ見せるために助けたんだろ)って冷めた気持ちとの二つが大体同時に来るわけです。こういうのは偽善になるんだろうか?それと個人的に言わせてもらえば、↑に書いてある深い思索を生み出すこともある、ってのは、結局はこういったことの無限ループな気がしてならないのですよ。

逆に、俺が人のことを偽善者って思うことは少ない。たとえ思慮が浅かろうが「いいこと」してる人を見ると(その人に対する先入観が無ければ)その人は「いい人」になってしまうし、裏にどんなこと考えてるかなんて正直なところどうでもいい。助けられた人が「助かった」って思ってるならいいと思える。(ただ、このときも、大体俺の中では二種類の感想が出てるが)

三つ目の偽善については、一応自己分析として、表面上の善行を上回るほどの害悪を与えている・・・ということは無いだろうと思いたいが、その後の、人に先駆けて行う事を臆するあまり、結局は何も出来ないでいる者たちが、目立った行いをする者を「偽善者」だと嘲笑する(似非ニヒリズム

ってとこにはちょっと考えるものがあった。もしかしたら俺は自分自身をその目立った行いをする者に当てはめてるだけで、善も悪も大して考えてないんじゃないかなぁ、と。そもそも何をするにも自分自身を馬鹿にするような意見が自分の中に浮かぶのはそういうことじゃないのかね。・・・だとしたらまぁ、壮大な馬鹿かつ勘違い男になるわけですが。


ウィキペの最後には、‘「偽善」への深い思索に裏打ちされ、常に自分の行為の及ぼす影響に留意してなされる継続的な行為は、たんなる主観的な善悪の次元を超越したものになりうる’ともあったけど、正直、今の俺の意見、というか思考は‘深い思索に裏打ち’されてはいないだろうし‘自分の行為の及ぼす影響に留意’しているとも思えない。

ただ、‘単なる主観的な善悪の次元を超越したもの’ってのは、善なのか悪なのか決められない俺の状況に似ていなくも無い。ただ、これももしかしたら善か悪かを決められない俺の逃げ道なのかもしれないけど。


とりあえず、今回調べてみたことで、俺が偽善者かどうかは疑問が残った。


とは言っても、やっぱ偽善だとしてもそれは善だ、ってのが俺の今の意見。

しばらくは俺のこの考えも変わらないだろうなぁ・・・